がけぷっち世界

ここはくまのおかしな世界です。

柱合会議コラ「ストリップ劇場編」を作ってみた

流行りに乗って柱合会議コラで、「ストリップ劇場編」を作ってみた。

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この柱合会議コラ「ストリップ劇場編」は、ツイッターに上げたものである。

スト客のフォロワーさんに「相変わらずバカバカしいことしてるなー」って言われるつもりで上げたら思っていたより10倍反応があって驚いた。バズったとうには遠く及ばないが、わたくそとしては300ファボ100RT越えというのは初めてかもしれない。(少なくとも今年1番)

スト客以外の人にも見ていただいたようだ。嬉しいんだけど、だったらもっとちゃんと作ればよかったという思いはある。(作るも何も、こういうコラというものは大っぴらに「作る」などといえるものではないのだが…)
わたくそ、鬼滅は映画を一回見ただけだ。わたくそのコラなど、鬼滅ファンからしたらソウジャナイ感でいっぱいかもしれない。そもそも柱とは何かということさえよくわかっていなかったのだ。

また、このコラでストリップに興味を持ってくれたと言ってくれる人がいたのは嬉しいが、ストリップの宣伝になるという気持ちはまったく持っていなかった。それならもっとちゃんと各劇場のいいところを挙げていた。
柱の何人か(ほとんど)は明らかに着眼点がおかしいのである。よく見ていただくと、看板、猫、カメ、売店など、ストリップの本質とは関係ないことしか言っていないのだ。「え?そこアピールするとこ?」とつっこんでくれるかなーと思いながらアップしたのだ。

 

1コマ目の「ストリップ初めて行くならどこがいい?」は真っ先に思いついた。「関東で」というのは後で付け足した。なぜカッコ付きで小さく記したのかというと、本文がうまいこと5・7・5になっていて、リズムを崩したくなかったのである。(←今数えたら中が8字でそんなにうまいこといってなかったわー)

煉獄さんのセリフと宇髄さんの二人については、元のセリフが残った画像を見つけたので、元のセリフを生かした。さらに、映画だけは観たので煉獄さんだけは比較的知っており、口癖を加えてみた。「よもやよもや」の使い方が間違ってるくさいのは承知の上むりやり入れたのである。「わっしょい」はうまくはまったと思う。

不死川さんのセリフは、他の方の柱合会議コラのうち、鬼滅を分かっていそうな人が書いた語尾に共通点があったのでそれを使ったんだぜぇ。スギちゃん風の語尾でそんなに間違ってはないだろぉ?しかし売店についてのセリフが日本語として練れていなかったのは悔やまれる。
伊黒さんについてはほとんど手掛かりがなかった。忍者風に見えたので語尾を「ござる」にしてみたが、どうやら間違っていたようだ。忍者=ござる という発想が古かったかもしれない。NARUTOでもござるとは言ってなかった。ござるはハットリくんまでさかのぼらねばなるまい。

甘露寺さんについては、他のコラを見たところ「とかどうかな」は元ネタを生かしていると考え、私もこれは残すことにした。彼女が発情しているかのように見えることから、川崎ロック座のカメの交尾を入れたのだが、私は最後に川崎に行ったのは2年前の春なので、内心まだ生きているか不安だったが…カメは長生きなのでまあ大丈夫だろうと見切り発車した。なお、川崎のカメはゾウガメほどではないがかなり大きいので、交尾は相当激しく大きな声を発する。
後からネットで甘露寺さんが猫好きであると知った。わかっていたら甘露寺さんを栗橋にしていた。なお、私、花澤香菜チャンは大好きだ。

時透さんは性別もわからなかったが名前で男性だと判断した。一人称は僕で良かったようだ。記憶障害があるとのこと、後から知った。わかっていたら「…たしか、浜劇…」と言わせたかった。

悲鳴嶋さん、実はまともにストリップ劇場の魅力を語っているのは彼だけなのである。しかしこれも後から知ったのだが、悲鳴嶋さん、目が…これは痛恨のミスマッチであった。

胡蝶さんは、映画に一瞬出ていたような気がしたがセリフはなかった(と思う)。だが、私は胡蝶さんの独特な語り口を知っていたのだ。踊り子さんが胡蝶さんのマネをしていたからである。胡蝶さんの発言は常に毒を含んでいるようだ。「アットホームすぎてびっくりしちゃいますよー」を胡蝶さんが言うといろいろ含んでいるかのように捉えられる可能性もあるが、もちろん私はいい意味で書いた。

富岡義勇さんは、他の方のコラだとさあオチだと言わんばかりにセリフを詰め込んでいる例と、「…」に続いて一言だけ発する例の2パターンに分かれている。ラストなのでここでセリフを詰め込みたくなるが、一言にしておいて正解だったようだ。蕨のすごさは説明できないのだ。

炭治郎は誰の意見も参考にせず、おそらく自分でネットで調べてニューアートに行ったのである。
これで関東のストリップ劇場を全て登場させることができたと思ったのだが、伊香保銀映は群馬県だった。伊香保を入れなかったのは痛恨である。
(今、やっているのかどうかわからないが)


このコラ、帰宅の電車で思いついて、帰って1時間くらいで作ったのである。反省点は多いが、思いたったまま勢いで作ったのが良かったのかもしれない。
(わたくその性格上、たぶん一晩おいたらアップしなかっただろう)
なお、登場人物に未成年がいるようだが、ストリップは18才未満入場禁止である。

 

ヒートテック、そろそろ卒業したい

寒くなってきましたね。新型コロナ心配ですね。
「コロナ」という言葉を憚って567とか感染症とかぼかす風潮もありますが、わてくそはコロナコロナ言っていくstileです。
男性用の冬の下着(長袖)といえば、一昔前はラクダのシャツとかモモヒキでした。
ラクダのシャツというのは、ラクダ色、つまり肌色のシャツです。今は肌色と言わず、学童用のクレヨンなどは「フレッシュ」になってきています。「うすだいだい」という表記もありますね。こういうアップデートには付いていこうと思っています。
ラクダのシャツは、たいてい胸に3つほどのボタンがありましたね。東日本大震災前に、亀有駅近くの商店街の潰れた店のシャッターの前でラクダ色の下着を並べている露天商を見ました。その時に「うわー昭和!」と懐かしくなりましたが、今はもうラクダ色の下着など町で売っていないでしょうね。
すいません、売ってますね。今ネットで調べたら、ラクダのシャツ、お高いんですね。12,000円とかしています。ただ肌色というだけじゃなくて、裏起毛のような、厚い生地なんですね。知らんかったです。
最近はヒートテックとか、発熱素材ですね。それしかないみたいになっています。わたくそも10年ほど前からヒートテックを愛用していたのですが、ちょっと考えなおそうかと思っております。
というのも、ヒートテックは着た時はひんやりしているくせに、家から駅まで歩くと(けっこう遠いんですよ、しかも途中に上り坂があるのです、とほほ)汗をかいて、その汗に反応してヒートテックが熱を発するんで余計に汗をかくんです。つまり、寒い時にはひんやりとしていて、暑くなると発熱するんですよ。望んでいることの反対なんです。そして、熱くなったところで電車にのり、さらに汗をかく。電車を降りて汗が冷えると風邪をひいてしまう。
混んでいるときは衣服の脱ぎ着で体温調節、不可能です。電車が空いてるときとか、劇場とかで、汗が引くまで上を脱ぐと、ヒートテックというのは薄くてぴっちりしていますので乳首がポッチリしてしまう、これも困りものです。
もう一つ困ったことがあります。最近、齢のせいかヒートテック着ると体、主に背中が痛いような痒いような、チクチクするのです。
発熱素材じゃないものはたいてい裏起毛なんですが、裏起毛はこれもまた暑すぎることが多いし、太って見えるんです。本当に太っているのですが、だからこそ、すこしでも着痩せしたい純情なオヤジ心、ですぅ(あややの「ねーえ」に乗せて)。
発熱素材でも裏起毛でもない、それでいて安くて柔らかい長袖の下着が欲しいのです。あっ、つまり長T、正確に言うと長袖Tシャツを下着として着ればいいのですね。はい、わかりました。

初ラーメン二郎


先週、初めてラーメン二郎に行った。

私はまあまあラーメン好きなのだが、二郎は独自のルールがめんどくさいし怖そうという印象があって避けているうちに、アラフィフになってしまった。
二郎独自のルールの中でも特にめんどうだと思ったものは、コールというやつだ。注文と言えばいいのにコールなどというのも気に食わなかった。
若いころ友達と二郎ごっこをしたことがある。「野菜シコシコニンニンニン」とか「マシマシカラカラニンニンニン」とか言わなきゃならない、そしてこのコールのどこかを間違えると、とんでもない量になったり、油だらけになったりするのだ。まあ、悪ふざけだ。(なぜ「にんにんにん」だったのか。あやまんJAPAN の影響か?)

二郎に行かない人生だったと思っていたのだが、先日テレビを見ていたら二郎愛を語っている人が出ていて、手持ち無沙汰だったので「テレビ見てたら二郎に興味でてきた」と何気なくツイートした。ちょいちょいの反応があり、踊り子さんまで背中を押ししてくれて、後には引けなくなった。私、スト客なので。
年齢的にも体力的にも初二郎をきめるにはそろそろ限界だろう。今行かないでいつ行くのという気持ちになり、ネットで生活圏にある二郎を探した。初めはインスパイア系にいってみては?というアドバイスもいただいたが、せっかく行くのだからこれぞ二郎という店に行きたい。
歌舞伎町店、千住大橋店、亀井戸店、松戸店、(千葉の)京成大久保店が候補に上がった。
歌舞伎町店はときどき前を通っている。ちらちらと様子をうかがいながら歩いていると「らっしゃい」と声をかけられたことがある。新しくて入りやすい雰囲気だが、ネットの評判だといまいち二郎らしさが足りないらしい(二郎らしさとは何だろうか。本店らしさということだろうか)。そもそも本格的な二郎は前を通る人に声をかけたりしない、らしいのだ。
千住大橋店と亀井戸店は二郎らしい二郎らしい。だがコロナ禍の影響か昼しか空いておらず、そのため行列が長いうえに、わてくそのタイミングと合わない。
大久保店は店員さんが気さくで初心者でも居心地がいいらしい。味噌ラーメンなど独自メニューもあるが、二郎らしさは薄いらしい。
松戸店は夜もやっているし、場所は職場から近い。店のツイッターアカウントを見たら、プロフィール欄の注意書きの羅列が「お、おぅ…」という迫力で、気の弱い私など身構えてしまう。麺の硬め柔らかめ、マシ、マシマシ、味の注文はできないと書いてある。これは潔い。さらに、初めての客は小ラーメンしか注文できないとなっていることも良い。初めての客にとっては迷わなくていい。食べていまいちだと感じても、自分がカスタマイズしたせいなのかくよくよしなくて良いのだ。そしてなにより、口コミでは三田の本店に近い味となっている。ここへ行けば二郎というものが分かるだろう。ということで、松戸店に行くことにした。まあ、なんだかんだ言っても一番の理由は職場に近くて帰りがけに寄るのに好都合からだ。

 

松戸店は正確には「松戸駅前店」だが、駅から5分ほど歩く。店のだいぶ手前でもういい匂いがしてきた。

平日夜の部開店の直後に着いた。並んでいた客が店内に吸い込まれていくところだった。私の前の二人連れで列が止まった。先に食券を買っておくスタイルなのは知っている。食券を買うためにいったん店内へ入る。店員が無言でじろりと見た。券売機には直接マジックで注意事項が殴り書きしてある。お札は千円札しか使えない。初心者は小ラーメンしか注文できないと知っていたので迷わず小ラーメンを押す。値段がいくらだったか忘れたが1000円札を入れて200円と10円玉がいくつか戻ってきた。(肝心なことを忘れ調べもしないそれが俺のStileこんな記事誰かの役に立とうなんてこれっぼっちも思っちゃいねぇyeah!)
12人くらい座れるL字型のカウンターは満席で、まだ誰にも提供されていなかった。列の短かさのわりに待つことになると思った。店の中に給水機があるが、店の前の自販機で買ったペットボトルは持ち込めることは知っていたので、フンパツして脂肪分解作用があると謳う黒ウーロン茶を買った。180円だった。なお、わたくその見たところ給水機の水の人と持ち込みの人は半々くらいで、持ち込みはわたくそ以外安くて量が多いふつうのウーロン茶だった。

プラスチックの食券と黒ウーロン茶を手にして外に出て改めて二人連れの後ろに並ぶ。
緊張してきた。不安ではあるが、前の二人の言動を参考にすれば間違いないだろう。二人は若い男女のカップルだ。男が女に喋っている。「二郎っていうのはね、元々慶応の学生向けだからコスパ最優先なんだ」「二郎って、注文のことをコールって言うんだよ。野菜マシマシ油多めとか。通はね、全部って言うんだ」「二郎って常連しか知らない裏メニューもあるから、気に入ったら通って大将と顔なじみになるといいよ」などと言っている。この男ジロリアンだ。参考になりそうだと聞き耳をたてる。
すると店員が外に出てきて前のカップルに「そちらに並んでください」と言って出入口の右側を指した。並ぶ位置を間違えていたのだ。二人は移動し、あてくそも後に続いた。彼はジロリアンではなかったらしい。さらに彼は「一万円使えますか?」と聞いた。まだ食券を買っていなかったのである。さあどうなるかと思ったが、店員は一旦店に入って千円札に崩してきた。
店内では一回転目の提供が進み、私の後ろにも列ができていた。店員が「食券見せて下さい」とか何とか言った(何と言ったかは記憶が定かではない)。麺の量について聞いたかどうか憶えていないが、前のカップルは二人とも「ふつう」と言った。わてくそ、身体は前のカップルを足したくらいのサイズなのだが、ビビリなので初めから「少なめ」と言うつもりでいた。しかしいざ聞かれると緊張からかどもってしまったうえ、魚市場の仲買人のようなばかにでかい塩辛声になってしまって、「す、す、少なめい!」となってしまった。後ろの人は「半分」と言った。一通り聞き終わった店員は中に入った。しばらくして食べ終わった客が一人、二人、と出てきた。三人くらい出て行ったが、前のカップルは入らない。私の予備知識では空いたらすみやかにその席に着くのだと思っていたが。外からは死角があってよく見えないが、店内で待っている客が数人いたのだろうか。カップルは並んで座りたいために二席続いた席が空くのを待っているのだとしたら、私が先に入った方が良いのか。判断が難しい。初回にしておそろしく難易度の高いところに並んでしまったのだ。どうしようと思っていたところ、カップルはおずおずと中に入った。私も後に続いて入った。メガネが曇った。
座るよう指示されてないのに座っていいものなのかどうかわからない。カップルは真ん中あたりの二席続きで空いたところに並んで座った。奥が空いているのでそこへ座ろうと壁際を進んだら二人食べ終わって立ち上がったのでわっちゃわっちゃしてしまい、スリムな方ならすれ違えるのだろうがわてくその身体だとすれ違えないことに気が付いて一旦券売機前まで後退し、一番奥の席についた。私、体が大きいので端の席が空いていて好都合だった。席に着くと店員が指でカウンターの上段をトントンと叩いた。え?と思っているともう一度トントンと叩いた。ここに食券を置け、という意味だと気がついて置いた。
私の席の横にトイレがあるが壊れているらしく、ドアに「使えません」とか「使用禁止」とか、殴り書きがしてある。店内は正直、殺風景である。厨房には二人、麺を茹でているのがおそらくご主人(けっこう若い)、もう一人が外に出てきた店員さんだ。厨房に小麦粉にまみれた製麺機が置いてある。店員は無言、客も無言。ラジオが流れている。
入ってきた客が一万円札をヒラヒラさせて「両替して」と言った。今日二人目だ。店員が無言で千円札に崩して渡した。不愛想だが、普通の事には応じるようだ。
上着を脱いでシャツを腕まくりして待った。いよいよこれからコールだ。なんだか緊張してきた。コールごっこはしたことがあるが、本当のコールは初めてだ。
松戸店では「マシ」や「マシマシ」はできない、と書いてあったが、それがどういうことなのかわからない。何も言わなくても野菜は乗っているはずだ。「野菜」というとさらに野菜が追加されるのだと思うが、そのことを「マシ」というのか、それとも「野菜」といって増量してもらうことは「マシ」ではないのか。私は初回だから、ニンニクだけ入れてもらいたいのだけれど。
コールについて、店内には貼り紙は無い。目の前に貼ってあるのは、食べ終わったらどんぶりを上げてカウンターをふきんで拭いて帰ること、それだけだ。カウンターの上段にはカウンターを拭くためのふきんが置いてある。それは決して手や顔をふくおしぼりではない。口を拭う紙ナプキンすらない。しかし必ず、手も口もギトギトになるので、ティッシュを持参すること必須である。つまようじもなく、カウンターには箸と胡椒のみ。レンゲもない。カウンターの下に棚があるが、あまり大きな荷物は置けない。壁にコート掛けがあったようだ。
店員がカップルに手を差し、「ニンニク入れますか」と聞いた。いよいよコールだ。男は「ニンニク野菜油で」と言った。女も「ニンニク野菜で」と言った。次にわたくそに向かって「ニンニク入れますか」と聞かれた。私は「ニンニクだけでおしゃす」と言った。「おなしゃす」ならまだいい。なぜか「おしゃす」になってしまった。

ラーメンが出てきた。ここでマスクを外す。小ラーメン少なめの注文なのだがすごいボリューム、優に他の店の倍はあるようだ。どんぶりの外側がすでにギトギトなので、下ろすときに手がギトギトになってしまった。テレビやネットでお馴みだが、盛り付けに美しさがない。普通だったら少し彩りを考えて、青ネギを散らすとか、カイワレを乗せるとかしそうだが、二郎にそんなものはいらないのであろう。ツイッターに店員やお客様の撮影禁止とあったから、自分のラーメンは取っていいのだろうと判断してスマホで写した。パシャアと音がしたが、特に注意されなかったし、撮っている客は他にもいた。
甘味を含んだ香ばしい匂いがする。まず、天地ガエシとか言って、上下ひっくり返すのが通の食べ方らしいのだが、レンゲがないし不器用なのでバッチャーンしそうでそのまま食べる。隣の客は天地ガエシしていた。
一番上に乗っているのは、モヤシとざく切りのキャベツからなる大量の野菜である。まずはこれを口に運ぶ。ザクザクしていてうまい。ブロック状の赤身肉はしっかりとした豚の味がする。次いで、半円の脂身が付いた豚肉が出てきた。これがいわゆる典型的なチャーシュウに使う部分であろう。脂身の甘味もまたうまい。そして、もう一枚(というか一かたまり)豚肉あったようだが、これは食べているうちにホロホロと崩れたようで、それが野菜や麺に絡んでいい具合になっていた。たまたまなのか、部位の違う肉が三個入っていたようだ。
麺は平たいが太さがある。初めはやや固く、顎が痛くなるかと思われたが、スープを吸うと丁度良くなった。ずっしりと重い食べ応え。少なめにしておいてよかった。スープは香ばしくうま味もたっぷりだが、底の方に行くにつれてしょっぱさが勝る。齢だし健康、とくに血圧に不安があるのでレンゲが無いということはスープは飲み干さなくてもよいものと解釈し、少々残して終わりにした。
どんぶりを上げカウンターを拭き、立ち上がる時に自然と「ごちそうさま」と言っていた。ご主人と店員が笑顔を向けて「ありがとうございます」と言った。

ラーメン二郎は店員と客の間で交わされるのは符牒のような最低限のやり取りだけで、あとは脇目もふらず無言でラーメンを口に運ぶのである。はからずともコロナ時代にふさわしいラーメン屋だといえよう。
食べた後は「美味いのはわかったけどもう十分だ」と思っていたが、不思議なことに一週間ほどたった今、また二郎のラーメンを食べたくなっている。

 

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↑小ラーメン・麺少なめ・ニンニク

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玉が痛んだはなし

5年ほど前の冬、一度だけ泌尿器科に行った。

私はなにかと病気がちだったので、これで普通の総合病院にある全ての科にかかったことになる(産婦人科は赤ん坊の時をカウント)。病院のスタンプラリーがあったらコンプリートだ。

泌尿器科に行くことになったのは、金玉が痛くなったためだ。片方の金玉がズキズキして腫れているようだ。椅子に座っていると圧迫されてさらに痛む。「おっほっほ」と声が出てしまうほどの痛さだった。電車では大股開きで座り、混んで来たら立っていた。硬めのジーパンは履けなくなった。(ジーパンのことを最近のナウなヤングはデニムと言うね)

痛みが始まってから1週間くらい経っても治らないどころか酷くなってきた。お笑い芸人さんが睾丸の片方を摘出手術を受けたことを思い出した。自己判断では良くて精巣捻転、悪くて睾丸ガンを疑った。泌尿器科というのはとても行きたくはない科なのだが、意を決して病院の泌尿器科を訪れた。
泌尿器科の待合室にいるのは主に高齢男性だった。トイレに行くと小便器の手前がビショビショに汚れていた。

診察室に入ると短髪で格闘技経験がありそうな30代と思われる先生が座っていた。第一印象は少し怖かったが、口調は丁寧だった。症状を説明すると「じゃあね、脱いでください」と言った。わたくそがシャツを脱ぎかけると「下だけで」と言った。いつもと反対である。脱いで先生の前に立ち、裾の長いセーターを着ていたので自分でたくし上げた。先生は椅子を近づけ前のめりになってわたくその陰部をじっと見ていたが、いきなり陰茎をつまみ上げた。垂れ下がった陰茎がじゃまをして陰嚢の一部が隠れていたからであろう。見えない薄いゴム手袋をしていたと思うが、他人の指の感触を生々しく感じた。すぐに手を放しても垂れ下がらなくなった。そうして先生はしばらく金玉をそっと転がすように触って、「腫れてはいないようですが」と言った。
「じゃあね、もっとよく調べましょう。そこに寝て下さい」と言われベッドに寝かされ、いつのまにか陰嚢の裏まで見えるポーズをとっていた。その時は知らなかったが所謂カエルであった。先生が何と指示したのかは憶えていないが、まさか先生が「カエルで」とは言わなかったはずだ。二、三簡単に指示されただけで自然とそのようなポーズになっていたのだ。
生暖かいジェル状のものが塗られた器械が押しあてられた。。じわーっと暖かく、これもまた妙な感覚であった。エコーを撮っているのだった。冬場ということもあり縮こまった袋の皺を伸ばしたり押し広げたりしながら四方八方から金玉にエコーを押し当てた。
「うーん、とくに異常は見られませんね。痛みはどうですか?」と聞かれたので「そういえば、痛みが和らいでいるようです」と答えた。前日がピークで本当に和らいできていて、グリグリされても我慢できないほどの痛みはなかったのである。「じゃあ、しばらく様子を見て、ひどくなるようでしたらまた来てください」ということだった。

数日後には自然に治ってしまったのでその後泌尿器科には行っていない。いったいなぜあんなに痛かったのか原因不明のままであるが、その後も冬になるとあれほどではないが金玉がズキズキする日がある。

素人ながら仮説を立てると、わたくそは玉に対する袋の大きさに余裕が少なく、寒いと陰嚢が縮こまり玉を圧迫するのだろう。若い時は陰嚢に柔軟性があったので縮んでも問題がなかったのであろうが、40才を超えると柔軟性が失われ、縮むことでさらに固くなった陰嚢が睾丸を圧迫するのだろう。などと考えてみたが、しかしあの時あれほど痛んだのに泌尿器科に行ったとたんに痛みが引いたというのはたまたまだったとしか言いようがない。(あっ、ダジャレみたいになっちゃった💦)

 

ところでこの前わたくそは、この話を踊り子さんにペラペラと喋ってしまったのだった。貴重な時間でなんというくだらないことを…と後悔した。何か素敵な話をすればよかった。

 

 

 

バスのボタン

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子供のころはバスのボタンを押すのが楽しみだった。押すとピンポーンもしくはプーと鳴って自分の押したボタンだけじゃなくバス中のボタンが紫色に光るのである。
今調べたら、降車ボタンと呼ぶらしい。降車ボタンを集めているマニアの方もいて、ガチャガチャにもなっている。
わたくそも降車ボタンを一つ持っている。その形から、30年ほどは前のバスのものと思われる。青いぶぶんには「とまります」と書いてある。9ボルトの角型電池を当てると紫色に光って「とまります」がはっきり見えるのだが、今9ボルト電池が見つからない。こんなものを持っているがわてくしは別にバスマニアというわけではない。いつどこで買ったのかはっきりしない。東急ハンズの何かのフェアだった気がする。そして数百円、350円とかで買ったのだと思う。
子供のころは押すのが楽しみだったので、誰かに先に押されてしまうとがっかりしていた。「終点では押さなくていいのよ」と母に言われながらも押してしまったこともあった。じつは20代になっても押したかった。別にどうでもいいやと思えるようになったのは30過ぎてからである。
このまえ親子連れが乗っていて、会話からわたくそと同じ停留所で降りそうだったので、「ぼっちゃんどうぞ押しなされ」という気分でボタンを押すのを待った。子どもがボタンに指を伸ばし、笑顔で顔でママの顔を見て、いよいよ押すぞという瞬間、子どもが押しそうだということを知ってか知らずか老婆がピンポーンと押してしまい、子どもは泣きそうな顔になった。
ところで降車ボタンを押すタイミングはいつがベストなのだろうか。前の停留所を出た直後だと、運転手が今の停留所で降り損ねたのかと思いブレーキをかけるかもしれない。放送で降りるバス停が読み上げられてから、というのがベストだろうとワテックスは思う。(ワテックスとは、私をスポーツ用品メーカー風にかっこよく表記したものである。)
夜、帰宅する勤め人でいっぱいの時間になると、今度は逆にだれもが押したがらないのである。皆誰かが押すのを待っているのだ。無言の戦い、押したら負けのチキンレース。ギリギリ手前になって心理戦に負けた者が押すのだ。で、止まると何人もゾロゾロ降りるのである。運転手からしたらさっさと押せと言いたいところだろう。

ふと思ったのだが、路面電車に降車ボタンはあっただろうか。都電(荒川線)にはなかった気がする。荒川線はほぼ地元ではあるが、3年くらい乗っていない。一番最近乗った路面電車長崎市電だ。長崎に行ったのは去年の春だからもう1年半経っている。今調べたら、長崎も荒川線も降車ボタンはあった。ということは、誰も押さなければ、そして待っている客もいなければ停まらないのだ。おもしろいね。
昔走っていた岐阜の路面電車は、路上にホームはおろか、電車を待つところが無くて(歩道のように一段盛り上がっているところさえもなかった)、車がビュンビュン走っている道の真ん中に停まっている電車に路上から直接乗り降りしていてびっくりしたが、あれは乗るときはどこで待っていればいいのだろう。路面電車はバスのように歩道まで寄ってきてはくれないのだ。歩道で待っていて手を挙げて電車を停めるのだろうか。今は岐阜の路面電車はないが、時々岐阜の人はどうやって乗っていたのか気になる。

 

 

 

好きなフルーツあるいはくだもの

月に一度くらい行く薬局の薬剤師さんが私の顔を見ると毎回のように「フルーツの摂り過ぎはダメです」と言う。「なんでフルーツが好きだとわかったんですか」と聞くと、「見るからにフルーツが好きそうですから」。「フルーツは身体にいいと思っているかもしれませんが、今のフルーツは糖度がものすごく高いです。一日自分の握りこぶしくらいを限度にしてください」と言う。握りこぶし一つでは、スイカなんて食べきれない。こういう会話も、指導料として加算されてるんだろうなと思うのだが、この薬剤師さんはあくまでもプライベートでと言いながらマスク不足の時には不織布のマスクを一箱くれたのだった。

 

子供のころはスイカが大好きだった。食べすぎて腹をこわしたことも度々ある。
親の世代はみんなスイカを丸ごと買うときは叩いて選んでいた。どういう音がしたら美味いのかという説明は聞いたことがないから、叩いてわかるものではなかったのだろう。今は叩いたら怒られるような気がする。
私が小学生のころは塩を振って食べていた。減塩がうたわれだしてから塩は振らなくなった。そもそもテーブルに塩を置かなくなった。
子どものころに食べたスイカは今のものよりもシャリシャリした食感だった。今は品種改良が進んだ結果なのかシャリ感が減った気がする。食感は少々キュウリに近ついた感じがする。
家族で大きなスイカを丸ごと買っていたときと違い、今は小玉スイカを買うので、品種の違いなのかもしれないと思って、先日大きなスイカを買ったのだが、シャリ感は乏しかった。
品種改良ではなくて、昔は熟れる前のものも混じっていて、それがシャリ感が強かったのかもしれない。甘味は少なく外側の白い部分がぶ厚いスイカも多かったように思う。今は計測技術の進歩でみな熟してから出荷しているということもあるのかもしれない。
たまに昔のシャリシャリしたスイカが食べたくなるのだが。

イカは果物か野菜かという問題があり、私の子供のころは野菜だということになっていたようだが、じゃあ近縁のメロンも野菜なのか、メロンはフルーツの女王じゃないのか、ということもあり、今はどっちでもいいということになっている。というかそんなことで喧々諤々していたのがばからしい。パンダは熊なのか猫なのかという論争もあったが、それは中国語の「大熊猫」という字面に引っ張られてのことだったのだろう。近年パンダは熊の仲間ということで落ち着いている。

 

メロンも好物だった。私は幼いころ病院通いをしていて、痛い検査に辛い思いをしていたのだが、駅前のケーキ屋で母に好きなケーキを買ってもらうことは楽しみだった。メロンの切れ端が乗ったケーキがあり、その色のきれいさに惹かれていたのだが、そのケーキは他のものより値段が張っていて、買ってもらえなかった。そのうち大きな手術をすることになり、退院したらメロンのケーキを買ってもらえることになった。
手術は成功して無事退院した。ところがそのメロンのケーキを買ってもらった記憶がない。私が食べたことを忘れたのか、母が約束を忘れていたのか、今となってはわからない。退院して家に着いて寿司をとった記憶はある。
そういえば手術後声が出せるようになった時、看護婦に何が飲みたいか聞かれ、メロンサワーをたのんだ。今はあまり見ないが、当時スーパーで売っていた乳酸飲料である。母が買ってきたが、まだ面会はできないから差し入れたのだろう。ところが別の看護婦さんが勘違いをしたようでそのメロンサワーを私の目の前で飲んでしまった。そんな記憶は鮮明である。

 

小学生のころ近所の八百屋さんは、ボロボロのトタンを貼り合わせたような店だった。八百屋というのは利益が出にくいのか、なぜか粗末な造りの店が多い印象だ。
その近所の店は安くて、気さくなオヤジがやっていて、人気があった。正確に言うと奥様方に人気だった。
その八百屋のオヤジは、「奥さん、美人だねー。サービスしておくよ」とかは当たり前のように言い、さらには「奥さんボインだねえ。のボインと同じくらいの重さのスイカ選んであげるよ」とか、「ご主人にヤマイモを食べさせて、夜の営み頑張ってもらわないと」とか言いだすので、母は嫌悪感を抱いて寄り付かなくなった。でもそういうノリが好きな人もいてけっこう賑わっていた。昭和の話である。今だったらセクハラとして問題にされるであろう。

 

小学校高学年からしばらく住んでいた家には庭があり、いちじくの木が植わっていた。一本だけだったが、夏になるとゴロゴロと実をつけ、食べ放題状態だった。いちじくは表皮に細かい毛が生えていて、手で割って食べるとなるとどうしても表皮が舌に触れ、一つくらいなら何ということもないが、いくつも食べると細かい毛によって舌がやられヒリヒリしてしまう。母はジャムにもしていたが、皮をむかずに作っていたようで、やはり舌がヒリヒリした。たぶん、表面の毛のせいばかりではなく、白い液にも舌をヒリヒリさせる成分が含まれているのだろう。そんなことで私はあるときからいちじくを好んでは食べなくなった。
引っ越していちじくの木がなくなってからは本当にいちじくを食べていなかったが、買ってまで食べるようになったのは最近、4年くらい前からのことである。一年に数回、少し食べればたいへん美味しい。
いちじくには春に小さな実をつけるものもあるそうだが、家のいちじくが春果をつけていたかどうかは定かでない。聖書に春のいちじくが「神の好物」とされているのは、人が食すには適していないという意味もあるのだろう。
子供のころ、「あなたがたは春のいちじくをよくご覧なさい」という聖書のくだりを語っていた神父さんはお付き合いはなくなったが、今もご健在だ。「先生の仰ったとおり、私は今、春のいちじくをよく見ています」とご報告したいと思うこともある(しない)。

 

舌がヒリヒリする果物といえばパイナップルだ。肉料理に使うと肉が柔らかくなるというから、舌がヒリヒリするのは当然だろう。パイナップルも一度に大量に食べるものではない。パイナップルとバナナは、昔は高級フルーツだったようで、看板建築など戦前の建物の装飾に、パイナップルとバナナが使われているのを時々見る。バナナなど今は安価で、「フルーツ」というよりは「果物」だ。

 

ぶどうで一番庶民的なのはデラウェアである。略して「デラ」だが、デラックスという雰囲気ではない。子供のころから食べ慣れているせいで風味が和風に感じているがアメリカ原産だ。
私はポッカのぶどうの粒が入ったジュースが好きで、高校の帰りなど自販機で買って飲んでいた。ほとんどのみ干してから、ズッ、ズッと啜るとズルッと一粒出てくる感触が良かった。勢いよくズルッと出てきてブゴッとむせて鼻から出てくることもあった。いま、そのぶどうジュースは無い。違うメーカーから「白ぶどう入り」の果実入りぶどうジュースが出ているがだいぶ違うようである。あの頃の缶の飲み口が狭かったのもあったのだろう。今、タピオカブームだが、ストローを通ってズルッと出てくる感覚はあれに近い。
私はぶどうではさわやかなマスカットが好きだ。白緑色の外見も美しい。みずみずしい巨峰も良い。中学の修学旅行で夕食のデザートに巨峰が出てきた。あれは美味しかった。私がよほどうまそうに食べていたのか、旅館の人がお代わりをくれた。今となっては、巨峰は風味が濃すぎてしつこさを感じてしまうことがある。

 

 

 

 

 

クラシックの客もいろいろ

コロナ禍でオーケストラの公演がなくなって久しい。室内楽のようなものならステージ上で距離をとって少しずつ始めているようだが、大編成のオーケストラを生で聞ける日は果たしていつになるのだろうか。マーラーの2番など合唱団も加わるものは最も難しいだろう。今年は年末に第九が聴けないだろう。特にドイツ語は唾が飛ぶ。むしろ唾を飛ばせと指導されてきているのだ。オペラも無理そうだ。ステージは演出でコロナに対応できても、オーケストラピットが大変な密度だ。徹底的にアクリル板で仕切れば響きが悪くなるだろうし。
コロナ以前から主に木管奏者の中にはステージにアクリル板を立てていることがある。先見の明があった、というわけではなく、後ろから鳴らされる金管・打楽器から耳を守るためである。

ストリップ通いする前私は、クラシックのコンサートに頻繁に行っていた。頻繁といっても月に平均二、三回程度だったが。去年は一度しか行かなかった。
学生のころは親が招待券を貰ってきてくれていたので、あまり興味のない時代の音楽も聴いていた。招待券が貰えなくなると、自分でチケットを取って行くようになったのだが、聞きに行くプログラムに大きな偏りが生じるようになった。マーラーショスタコーヴィチの巨大な交響曲が大好きで、同じ曲に何度も足を運んでいた。一方CDはブラームスチャイコフスキーラフマニノフあたりもけっこうな数を持っている(みんな後期ロマン派以降だ)。生演奏で大編成を好むのは、録音には入りきらない音があるからであるのと、せっかく生で聞くからには大勢舞台に乗っていた方が得した気分であるという貧乏性のような気持ちも少しあった。

ストリップではマナーの悪いお客さんに悩まされることも多いが、クラシックにもマナーの悪いお客さんはいる。
大編成の交響曲でも繊細な弱音が続くことは多い。さすがにレジ袋をカサカサさせて酒を飲んだり弁当を食べるような者はいないが、息も凍るようなピアニッシモの最中には飴の包み紙を開ける音なども気になる。さっと出してポンと口に入れてしまえば一瞬なのに、気を使っているのか少しずつ少しずつ、ミシッ…ミシッ…と長時間かけて飴の包装を開けるのでよけいに気になってしまうこともある。ヘタすると飴一つなめるのにアダージョ楽章丸ごと費やしてしまう人もいる。
飴をなめたくなるのは咳を防ぐためだ。咳は生理現象だから仕方がない。体調が万全だと思っていても出てしまうこともある。風邪の流行時期などすごいもので、絶え間なく客席のあちこちで咳が聞こえることもある。とはいえコロナ禍の下では、咳が出ることが予想される体調ならキャンセルするべきだろう。
ずっとうちわや扇子を扇いでいる人も気になる。席に着いたばかりの時は体も熱いだろうから扇ぐのはわかる。空調が効いているホールなのにずっと扇いでいる人には参る。扇ぐ動作が手癖になってしまっているのだろう。視界の隅にひらひらと白いものが反復動作動しているのは気が散る。同じく、指揮に合わせて手を動かす人も気になる。指揮の真似事をしている人もたまに見かける。初めは胸の前で手首から先を近く動かしていても、エキサイトしてくると振りが大きくなり背もたれを揺らす。そういう人は家でCDをかけて箸でも振っていればよい。
あまり迷惑に感じないが私が気になるのは、熱心にプログラム(冊子)の楽団員紹介をチェックしている人である。老眼鏡を上げ下げしながら、プログラムの名前とステージの人物をこまめに見比べている。念入りに指差し確認までして、名前と顔が一致すると、さも納得したかのようにウンウンと頷く。このタイプの人は演劇や、香盤表をくれるストリップ劇場にもいるが、大編成のオーケストラは人数が膨大なだけに大変であろう。何のためだか分からないが、ご苦労な作業である。
二千人クラスのホールにおいては拍手の音量など気にならなそうなものだが、たまにスバ抜けてデカい爆音拍手をする者がいる。手のひらに仕込んだ紙火薬を炸裂させているのではないかと疑うくらいだ。そんな人がすぐ後ろにいると耳がおかしくなる。コンサートの終わりか、休憩の前ならばまだいいのである。耳がキーンとしたところで、すぐに次の繊細な始まり方をする曲が始まってごらんなさい、ろくに聴こえないから。こうなると自らをベートーヴェンの苦悩になぞらえて耐えしのぶしかない。
フライング拍手およびフライングブラボーは誰しも気になるところであろう。クラシックにはひねくれた曲も多いから、知らない曲で終わったと思って拍手をするのは危険だ。
曲が終わったとしても、余韻を切り裂くような無粋な拍手もやめてほしい。指揮者が腕を下ろすまでは曲なんだ。特にシリアスかつ静かに終わるマーラーの9番、ショスタコーヴィチの多くの交響曲。拍手が早すぎる人は「ようし、俺が一番乗りだ!」という気持ちなのだろうか。それとも早く終わってほしかったのか。「はい、終わりだ終わりだ!撤収ー!」ということなのか。よほどトイレ我慢してたのか。フライングブラボーはなお悪い。「ブラ…」と叫びかけて早まったと思ってひっこめちゃう人、ブラってなんだ、ブラジャーか。
終演後、周りに客がいる所で「今日の演奏はつまらなかったなー」などとデカい声で言うのもマナーが悪い。その演奏に感動している者もいるかもしれないし、ファンや関係者だっているのだ。

初心者がマナーが悪いのならまあしょうがないなと思うのだが、分かっているはずの常連さんだと、腹立たしさもひときわ大きくなるものだ。
有名な常連客に「サスペンダー氏」または「サスペンダーおじさん」と呼ばれている老人がいる。私がサスペンダー氏を意識し始めたのは20年ほど前だったが、そのころから老人という印象だった。
コンサートの演奏開始までの順序は、時間までに客が着席する、ステージにオーケストラが揃い音合わせをする、指揮者・ソリストが登場する、拍手する、演奏が始まる、というのが流れだ。
ところがある日、指揮者・ソリストが登場して拍手しているさ中に、サスペンダーが印象的な老人が悠然とステージ前を横切って最前列の真ん中の席にどっしりと座った。客はあたかも彼の登場に対して拍手をしているようにも思えたし、指揮者は彼の着席を待って演奏が始めたようにも思えた。初めはその堂々たる態度に相当偉い関係者なのかと思った。例えばコンサートの主催やスポンサー、大新聞社の社主だとか…という想像もした。
それから続けて二、三回、氏のふるまいを目にし、また周りの人のうわさで、彼はサスペンダー氏と呼ばれている迷惑客なのだとわかった。いつもギリギリ(時にはもう完全にアウトなタイミング)に入ってきて、最前列の中央に座る。皇室の方が聴きに来られる場合は一般客が席に着いてから入ってくるのだが、氏は皇室の方よりもあとから、しかも悠然と入ってくるのだ。
氏はいつも大きな黒いリュックサックを持ち込んでいた。最前列なのでステージ直下に置いていた。多くのホールではクロークに無料で荷物を預けられるのに。そのような氏の後ろ姿を見るのも不愉快なのに嫌でも目に入る位置にいるので、いい演奏であっても感興を削がれてしまう。
ストリップとは違って、クラシックとりわけオーケストラによる公演では最前列は決して良い席ではない。音響は3階席の方がよほど良い。観るということに関しても良い席ではない。ステージ奥の楽器はほとんど見えないのだ。よほどお気に入りの指揮者かソリストがお目当てなら最前列もいいかもしれないが、氏は都内で行われるコンサートには無節操に出没するので、とくにお気に入りがいるわけでもなさそうだ。
なぜ氏は毎回ギリギリに入ってきて、最前列中央に座るのだろうか。ギリギリチャレンジゲームでスリルを味わっているのだろうか。私には、自己顕示欲のためだと思う。会場の全客、全演奏者の視線を受けて入場することにこだわっているのだろう。
長年そのように思っていたが、最近ネットで氏に関する記述を目にしたところ、どうやらギリギリに入ってくる理由は違うらしい。氏は最前列のチケットは持っていないという説がある。モギリを通過するためにチケットは持っているが、それは後方の安い席のものなのかもしれない。演奏開始ギリギリに入ってくるのは、その時点では本来の最前列の客が来る可能性がほぼ無いことと、スタッフがチケットを確認するために声をかける時間が無いことを考えての行動なのであろう。そして時々スタッフと揉めていることもわかった。

休憩時間中にロビーで氏を至近距離で見かけたことがある。私はふだん1階席には座らないので遠目ではわからなかったが、近くで見る氏は社主どころか、どうやって連日のチケット代を捻出しているのか不思議になるような身なりであった。素足にサンダル履きで、おそらくは家からタッパーに詰め込んできた白米をかき込んでいた。その姿は明らかに場違いであった。なぜ華やかで人目につくロビーでそんなものを食わねばならないのか。せいぜい2時間の公演である。公演の前か後に外で食えばいいのではないか。その行動は理解できないが、背中を丸めて白米を食らう氏の背中に哀愁を感じでしまった。
私がクラシックから足が遠のいてもサスペンダー氏は通い続けているようで、時々テレビの音楽番組に写り込んでいる。