がけぷっち世界

ここはくまのおかしな世界です。

バスのボタン

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子供のころはバスのボタンを押すのが楽しみだった。押すとピンポーンもしくはプーと鳴って自分の押したボタンだけじゃなくバス中のボタンが紫色に光るのである。
今調べたら、降車ボタンと呼ぶらしい。降車ボタンを集めているマニアの方もいて、ガチャガチャにもなっている。
わたくそも降車ボタンを一つ持っている。その形から、30年ほどは前のバスのものと思われる。青いぶぶんには「とまります」と書いてある。9ボルトの角型電池を当てると紫色に光って「とまります」がはっきり見えるのだが、今9ボルト電池が見つからない。こんなものを持っているがわてくしは別にバスマニアというわけではない。いつどこで買ったのかはっきりしない。東急ハンズの何かのフェアだった気がする。そして数百円、350円とかで買ったのだと思う。
子供のころは押すのが楽しみだったので、誰かに先に押されてしまうとがっかりしていた。「終点では押さなくていいのよ」と母に言われながらも押してしまったこともあった。じつは20代になっても押したかった。別にどうでもいいやと思えるようになったのは30過ぎてからである。
このまえ親子連れが乗っていて、会話からわたくそと同じ停留所で降りそうだったので、「ぼっちゃんどうぞ押しなされ」という気分でボタンを押すのを待った。子どもがボタンに指を伸ばし、笑顔で顔でママの顔を見て、いよいよ押すぞという瞬間、子どもが押しそうだということを知ってか知らずか老婆がピンポーンと押してしまい、子どもは泣きそうな顔になった。
ところで降車ボタンを押すタイミングはいつがベストなのだろうか。前の停留所を出た直後だと、運転手が今の停留所で降り損ねたのかと思いブレーキをかけるかもしれない。放送で降りるバス停が読み上げられてから、というのがベストだろうとワテックスは思う。(ワテックスとは、私をスポーツ用品メーカー風にかっこよく表記したものである。)
夜、帰宅する勤め人でいっぱいの時間になると、今度は逆にだれもが押したがらないのである。皆誰かが押すのを待っているのだ。無言の戦い、押したら負けのチキンレース。ギリギリ手前になって心理戦に負けた者が押すのだ。で、止まると何人もゾロゾロ降りるのである。運転手からしたらさっさと押せと言いたいところだろう。

ふと思ったのだが、路面電車に降車ボタンはあっただろうか。都電(荒川線)にはなかった気がする。荒川線はほぼ地元ではあるが、3年くらい乗っていない。一番最近乗った路面電車長崎市電だ。長崎に行ったのは去年の春だからもう1年半経っている。今調べたら、長崎も荒川線も降車ボタンはあった。ということは、誰も押さなければ、そして待っている客もいなければ停まらないのだ。おもしろいね。
昔走っていた岐阜の路面電車は、路上にホームはおろか、電車を待つところが無くて(歩道のように一段盛り上がっているところさえもなかった)、車がビュンビュン走っている道の真ん中に停まっている電車に路上から直接乗り降りしていてびっくりしたが、あれは乗るときはどこで待っていればいいのだろう。路面電車はバスのように歩道まで寄ってきてはくれないのだ。歩道で待っていて手を挙げて電車を停めるのだろうか。今は岐阜の路面電車はないが、時々岐阜の人はどうやって乗っていたのか気になる。

 

 

 

好きなフルーツあるいはくだもの

月に一度くらい行く薬局の薬剤師さんが私の顔を見ると毎回のように「フルーツの摂り過ぎはダメです」と言う。「なんでフルーツが好きだとわかったんですか」と聞くと、「見るからにフルーツが好きそうですから」。「フルーツは身体にいいと思っているかもしれませんが、今のフルーツは糖度がものすごく高いです。一日自分の握りこぶしくらいを限度にしてください」と言う。握りこぶし一つでは、スイカなんて食べきれない。こういう会話も、指導料として加算されてるんだろうなと思うのだが、この薬剤師さんはあくまでもプライベートでと言いながらマスク不足の時には不織布のマスクを一箱くれたのだった。

 

子供のころはスイカが大好きだった。食べすぎて腹をこわしたことも度々ある。
親の世代はみんなスイカを丸ごと買うときは叩いて選んでいた。どういう音がしたら美味いのかという説明は聞いたことがないから、叩いてわかるものではなかったのだろう。今は叩いたら怒られるような気がする。
私が小学生のころは塩を振って食べていた。減塩がうたわれだしてから塩は振らなくなった。そもそもテーブルに塩を置かなくなった。
子どものころに食べたスイカは今のものよりもシャリシャリした食感だった。今は品種改良が進んだ結果なのかシャリ感が減った気がする。食感は少々キュウリに近ついた感じがする。
家族で大きなスイカを丸ごと買っていたときと違い、今は小玉スイカを買うので、品種の違いなのかもしれないと思って、先日大きなスイカを買ったのだが、シャリ感は乏しかった。
品種改良ではなくて、昔は熟れる前のものも混じっていて、それがシャリ感が強かったのかもしれない。甘味は少なく外側の白い部分がぶ厚いスイカも多かったように思う。今は計測技術の進歩でみな熟してから出荷しているということもあるのかもしれない。
たまに昔のシャリシャリしたスイカが食べたくなるのだが。

イカは果物か野菜かという問題があり、私の子供のころは野菜だということになっていたようだが、じゃあ近縁のメロンも野菜なのか、メロンはフルーツの女王じゃないのか、ということもあり、今はどっちでもいいということになっている。というかそんなことで喧々諤々していたのがばからしい。パンダは熊なのか猫なのかという論争もあったが、それは中国語の「大熊猫」という字面に引っ張られてのことだったのだろう。近年パンダは熊の仲間ということで落ち着いている。

 

メロンも好物だった。私は幼いころ病院通いをしていて、痛い検査に辛い思いをしていたのだが、駅前のケーキ屋で母に好きなケーキを買ってもらうことは楽しみだった。メロンの切れ端が乗ったケーキがあり、その色のきれいさに惹かれていたのだが、そのケーキは他のものより値段が張っていて、買ってもらえなかった。そのうち大きな手術をすることになり、退院したらメロンのケーキを買ってもらえることになった。
手術は成功して無事退院した。ところがそのメロンのケーキを買ってもらった記憶がない。私が食べたことを忘れたのか、母が約束を忘れていたのか、今となってはわからない。退院して家に着いて寿司をとった記憶はある。
そういえば手術後声が出せるようになった時、看護婦に何が飲みたいか聞かれ、メロンサワーをたのんだ。今はあまり見ないが、当時スーパーで売っていた乳酸飲料である。母が買ってきたが、まだ面会はできないから差し入れたのだろう。ところが別の看護婦さんが勘違いをしたようでそのメロンサワーを私の目の前で飲んでしまった。そんな記憶は鮮明である。

 

小学生のころ近所の八百屋さんは、ボロボロのトタンを貼り合わせたような店だった。八百屋というのは利益が出にくいのか、なぜか粗末な造りの店が多い印象だ。
その近所の店は安くて、気さくなオヤジがやっていて、人気があった。正確に言うと奥様方に人気だった。
その八百屋のオヤジは、「奥さん、美人だねー。サービスしておくよ」とかは当たり前のように言い、さらには「奥さんボインだねえ。のボインと同じくらいの重さのスイカ選んであげるよ」とか、「ご主人にヤマイモを食べさせて、夜の営み頑張ってもらわないと」とか言いだすので、母は嫌悪感を抱いて寄り付かなくなった。でもそういうノリが好きな人もいてけっこう賑わっていた。昭和の話である。今だったらセクハラとして問題にされるであろう。

 

小学校高学年からしばらく住んでいた家には庭があり、いちじくの木が植わっていた。一本だけだったが、夏になるとゴロゴロと実をつけ、食べ放題状態だった。いちじくは表皮に細かい毛が生えていて、手で割って食べるとなるとどうしても表皮が舌に触れ、一つくらいなら何ということもないが、いくつも食べると細かい毛によって舌がやられヒリヒリしてしまう。母はジャムにもしていたが、皮をむかずに作っていたようで、やはり舌がヒリヒリした。たぶん、表面の毛のせいばかりではなく、白い液にも舌をヒリヒリさせる成分が含まれているのだろう。そんなことで私はあるときからいちじくを好んでは食べなくなった。
引っ越していちじくの木がなくなってからは本当にいちじくを食べていなかったが、買ってまで食べるようになったのは最近、4年くらい前からのことである。一年に数回、少し食べればたいへん美味しい。
いちじくには春に小さな実をつけるものもあるそうだが、家のいちじくが春果をつけていたかどうかは定かでない。聖書に春のいちじくが「神の好物」とされているのは、人が食すには適していないという意味もあるのだろう。
子供のころ、「あなたがたは春のいちじくをよくご覧なさい」という聖書のくだりを語っていた神父さんはお付き合いはなくなったが、今もご健在だ。「先生の仰ったとおり、私は今、春のいちじくをよく見ています」とご報告したいと思うこともある(しない)。

 

舌がヒリヒリする果物といえばパイナップルだ。肉料理に使うと肉が柔らかくなるというから、舌がヒリヒリするのは当然だろう。パイナップルも一度に大量に食べるものではない。パイナップルとバナナは、昔は高級フルーツだったようで、看板建築など戦前の建物の装飾に、パイナップルとバナナが使われているのを時々見る。バナナなど今は安価で、「フルーツ」というよりは「果物」だ。

 

ぶどうで一番庶民的なのはデラウェアである。略して「デラ」だが、デラックスという雰囲気ではない。子供のころから食べ慣れているせいで風味が和風に感じているがアメリカ原産だ。
私はポッカのぶどうの粒が入ったジュースが好きで、高校の帰りなど自販機で買って飲んでいた。ほとんどのみ干してから、ズッ、ズッと啜るとズルッと一粒出てくる感触が良かった。勢いよくズルッと出てきてブゴッとむせて鼻から出てくることもあった。いま、そのぶどうジュースは無い。違うメーカーから「白ぶどう入り」の果実入りぶどうジュースが出ているがだいぶ違うようである。あの頃の缶の飲み口が狭かったのもあったのだろう。今、タピオカブームだが、ストローを通ってズルッと出てくる感覚はあれに近い。
私はぶどうではさわやかなマスカットが好きだ。白緑色の外見も美しい。みずみずしい巨峰も良い。中学の修学旅行で夕食のデザートに巨峰が出てきた。あれは美味しかった。私がよほどうまそうに食べていたのか、旅館の人がお代わりをくれた。今となっては、巨峰は風味が濃すぎてしつこさを感じてしまうことがある。

 

 

 

 

 

クラシックの客もいろいろ

コロナ禍でオーケストラの公演がなくなって久しい。室内楽のようなものならステージ上で距離をとって少しずつ始めているようだが、大編成のオーケストラを生で聞ける日は果たしていつになるのだろうか。マーラーの2番など合唱団も加わるものは最も難しいだろう。今年は年末に第九が聴けないだろう。特にドイツ語は唾が飛ぶ。むしろ唾を飛ばせと指導されてきているのだ。オペラも無理そうだ。ステージは演出でコロナに対応できても、オーケストラピットが大変な密度だ。徹底的にアクリル板で仕切れば響きが悪くなるだろうし。
コロナ以前から主に木管奏者の中にはステージにアクリル板を立てていることがある。先見の明があった、というわけではなく、後ろから鳴らされる金管・打楽器から耳を守るためである。

ストリップ通いする前私は、クラシックのコンサートに頻繁に行っていた。頻繁といっても月に平均二、三回程度だったが。去年は一度しか行かなかった。
学生のころは親が招待券を貰ってきてくれていたので、あまり興味のない時代の音楽も聴いていた。招待券が貰えなくなると、自分でチケットを取って行くようになったのだが、聞きに行くプログラムに大きな偏りが生じるようになった。マーラーショスタコーヴィチの巨大な交響曲が大好きで、同じ曲に何度も足を運んでいた。一方CDはブラームスチャイコフスキーラフマニノフあたりもけっこうな数を持っている(みんな後期ロマン派以降だ)。生演奏で大編成を好むのは、録音には入りきらない音があるからであるのと、せっかく生で聞くからには大勢舞台に乗っていた方が得した気分であるという貧乏性のような気持ちも少しあった。

ストリップではマナーの悪いお客さんに悩まされることも多いが、クラシックにもマナーの悪いお客さんはいる。
大編成の交響曲でも繊細な弱音が続くことは多い。さすがにレジ袋をカサカサさせて酒を飲んだり弁当を食べるような者はいないが、息も凍るようなピアニッシモの最中には飴の包み紙を開ける音なども気になる。さっと出してポンと口に入れてしまえば一瞬なのに、気を使っているのか少しずつ少しずつ、ミシッ…ミシッ…と長時間かけて飴の包装を開けるのでよけいに気になってしまうこともある。ヘタすると飴一つなめるのにアダージョ楽章丸ごと費やしてしまう人もいる。
飴をなめたくなるのは咳を防ぐためだ。咳は生理現象だから仕方がない。体調が万全だと思っていても出てしまうこともある。風邪の流行時期などすごいもので、絶え間なく客席のあちこちで咳が聞こえることもある。とはいえコロナ禍の下では、咳が出ることが予想される体調ならキャンセルするべきだろう。
ずっとうちわや扇子を扇いでいる人も気になる。席に着いたばかりの時は体も熱いだろうから扇ぐのはわかる。空調が効いているホールなのにずっと扇いでいる人には参る。扇ぐ動作が手癖になってしまっているのだろう。視界の隅にひらひらと白いものが反復動作動しているのは気が散る。同じく、指揮に合わせて手を動かす人も気になる。指揮の真似事をしている人もたまに見かける。初めは胸の前で手首から先を近く動かしていても、エキサイトしてくると振りが大きくなり背もたれを揺らす。そういう人は家でCDをかけて箸でも振っていればよい。
あまり迷惑に感じないが私が気になるのは、熱心にプログラム(冊子)の楽団員紹介をチェックしている人である。老眼鏡を上げ下げしながら、プログラムの名前とステージの人物をこまめに見比べている。念入りに指差し確認までして、名前と顔が一致すると、さも納得したかのようにウンウンと頷く。このタイプの人は演劇や、香盤表をくれるストリップ劇場にもいるが、大編成のオーケストラは人数が膨大なだけに大変であろう。何のためだか分からないが、ご苦労な作業である。
二千人クラスのホールにおいては拍手の音量など気にならなそうなものだが、たまにスバ抜けてデカい爆音拍手をする者がいる。手のひらに仕込んだ紙火薬を炸裂させているのではないかと疑うくらいだ。そんな人がすぐ後ろにいると耳がおかしくなる。コンサートの終わりか、休憩の前ならばまだいいのである。耳がキーンとしたところで、すぐに次の繊細な始まり方をする曲が始まってごらんなさい、ろくに聴こえないから。こうなると自らをベートーヴェンの苦悩になぞらえて耐えしのぶしかない。
フライング拍手およびフライングブラボーは誰しも気になるところであろう。クラシックにはひねくれた曲も多いから、知らない曲で終わったと思って拍手をするのは危険だ。
曲が終わったとしても、余韻を切り裂くような無粋な拍手もやめてほしい。指揮者が腕を下ろすまでは曲なんだ。特にシリアスかつ静かに終わるマーラーの9番、ショスタコーヴィチの多くの交響曲。拍手が早すぎる人は「ようし、俺が一番乗りだ!」という気持ちなのだろうか。それとも早く終わってほしかったのか。「はい、終わりだ終わりだ!撤収ー!」ということなのか。よほどトイレ我慢してたのか。フライングブラボーはなお悪い。「ブラ…」と叫びかけて早まったと思ってひっこめちゃう人、ブラってなんだ、ブラジャーか。
終演後、周りに客がいる所で「今日の演奏はつまらなかったなー」などとデカい声で言うのもマナーが悪い。その演奏に感動している者もいるかもしれないし、ファンや関係者だっているのだ。

初心者がマナーが悪いのならまあしょうがないなと思うのだが、分かっているはずの常連さんだと、腹立たしさもひときわ大きくなるものだ。
有名な常連客に「サスペンダー氏」または「サスペンダーおじさん」と呼ばれている老人がいる。私がサスペンダー氏を意識し始めたのは20年ほど前だったが、そのころから老人という印象だった。
コンサートの演奏開始までの順序は、時間までに客が着席する、ステージにオーケストラが揃い音合わせをする、指揮者・ソリストが登場する、拍手する、演奏が始まる、というのが流れだ。
ところがある日、指揮者・ソリストが登場して拍手しているさ中に、サスペンダーが印象的な老人が悠然とステージ前を横切って最前列の真ん中の席にどっしりと座った。客はあたかも彼の登場に対して拍手をしているようにも思えたし、指揮者は彼の着席を待って演奏が始めたようにも思えた。初めはその堂々たる態度に相当偉い関係者なのかと思った。例えばコンサートの主催やスポンサー、大新聞社の社主だとか…という想像もした。
それから続けて二、三回、氏のふるまいを目にし、また周りの人のうわさで、彼はサスペンダー氏と呼ばれている迷惑客なのだとわかった。いつもギリギリ(時にはもう完全にアウトなタイミング)に入ってきて、最前列の中央に座る。皇室の方が聴きに来られる場合は一般客が席に着いてから入ってくるのだが、氏は皇室の方よりもあとから、しかも悠然と入ってくるのだ。
氏はいつも大きな黒いリュックサックを持ち込んでいた。最前列なのでステージ直下に置いていた。多くのホールではクロークに無料で荷物を預けられるのに。そのような氏の後ろ姿を見るのも不愉快なのに嫌でも目に入る位置にいるので、いい演奏であっても感興を削がれてしまう。
ストリップとは違って、クラシックとりわけオーケストラによる公演では最前列は決して良い席ではない。音響は3階席の方がよほど良い。観るということに関しても良い席ではない。ステージ奥の楽器はほとんど見えないのだ。よほどお気に入りの指揮者かソリストがお目当てなら最前列もいいかもしれないが、氏は都内で行われるコンサートには無節操に出没するので、とくにお気に入りがいるわけでもなさそうだ。
なぜ氏は毎回ギリギリに入ってきて、最前列中央に座るのだろうか。ギリギリチャレンジゲームでスリルを味わっているのだろうか。私には、自己顕示欲のためだと思う。会場の全客、全演奏者の視線を受けて入場することにこだわっているのだろう。
長年そのように思っていたが、最近ネットで氏に関する記述を目にしたところ、どうやらギリギリに入ってくる理由は違うらしい。氏は最前列のチケットは持っていないという説がある。モギリを通過するためにチケットは持っているが、それは後方の安い席のものなのかもしれない。演奏開始ギリギリに入ってくるのは、その時点では本来の最前列の客が来る可能性がほぼ無いことと、スタッフがチケットを確認するために声をかける時間が無いことを考えての行動なのであろう。そして時々スタッフと揉めていることもわかった。

休憩時間中にロビーで氏を至近距離で見かけたことがある。私はふだん1階席には座らないので遠目ではわからなかったが、近くで見る氏は社主どころか、どうやって連日のチケット代を捻出しているのか不思議になるような身なりであった。素足にサンダル履きで、おそらくは家からタッパーに詰め込んできた白米をかき込んでいた。その姿は明らかに場違いであった。なぜ華やかで人目につくロビーでそんなものを食わねばならないのか。せいぜい2時間の公演である。公演の前か後に外で食えばいいのではないか。その行動は理解できないが、背中を丸めて白米を食らう氏の背中に哀愁を感じでしまった。
私がクラシックから足が遠のいてもサスペンダー氏は通い続けているようで、時々テレビの音楽番組に写り込んでいる。

 

 

赤いものを身に着けてモテモテになるのよ

道頓堀劇場のロビーでぼーっとテレビを見ていたらギボ愛子さん似の占い師がこちらをじっと見つめて「あなた、モテないでしょう」と言ってきた。不愉快なのでチャンネルを変えたいのだが劇場のテレビなので変えるわけにもいかず、下を向いてピンクと水色のタイル張りの床をきれいな色だなーと思って見ていると、ギボさんがテレビを抜け出す気配がして「これはくるぞくるぞ」と思っていたら案の定わたくその座っているソファの右側が沈み込んで誰かが座った様子、顔を上げるとすぐ近くにギボさんが座っていた。目が合うとニッコリと前歯を出して「ようこそいらっしゃい」と言った。いやギボさんのほうが来たんだと思ったが、何も言えずにいると、ギボさんは「赤いものを身につけなさい」と言った。メロンジュースはメロンの切り身がコップに刺してあるものが上等なのに最近はなかなか出してくれる店が無くなったわね、という話を織り交ぜながら、「赤いものを身に着けると異性にモテモテになるのよ」「モテるだけじゃなくて、赤って、ほら、ね?」と言ってわたくそを見つめている。「ほら、ね?」の先は口に出さないのはわてくそに考えさせようということであろう。赤には古来より疫病除けの意味があるので、時節柄新型コロナ除けのことだなと思ったが、わたくそは返事も何もできないでまたうつむいて黙っていたら、ギボさんはいつの間にか消えていた。
 
 という夢を4月中旬に見た。わたくそは夢をたくさん見る。とくにコロナ緊急事態宣言が出て、生活にメリハリが乏しくなってからは濃い夢をたくさん見る。その中でこの夢は長さ質ともに大したことはない部類で、せっかく劇場にいながら踊り子さんが出てこないというのはつまらない。すぐ忘れる夢だと思っていたのだが、妙に鮮明な部分もあって数日経っても忘れられず、それどころか、赤いものを身につけようという気がムクムクと起こってきた。ギボさん、夢の中でもうまいことを言う。モテたい一心で赤シャツを着ることは羞恥心が強くて自らの行動を抑制してしまうが、コロナ退散の意味も持たせて動機がダブルミーニングとなっていることによって、赤いものを身につけることに抵抗が薄くなったのである。

わてくそ、若くてスリムなボデーだったころは赤いシャツも着こなしていたのだが、このごろは黒か紺がほとんど。ワイシャツは縦縞を好む。今や赤のように強烈な色彩はわてくそのでかい身体を迫力をもってさらにでかく見せてしまうのである。しかし「身につける」というのは何もシャツに限らなくてもよいのである。面積の小さいものなら、帽子、メガネ、中尾巻き風のネッカチーフが思い浮かんだ。だが、これらは主張が強すぎたり、シャアへの憧れが強すぎる人みたいだ。すると腕時計くらいかなぁと。赤の面積はごく小さいけれど、腕時計ならずっと身に着けていられる。そう思うと俄然腕時計が欲しくなってきた。劇場に行くときによく着けていた青い文字盤の腕時計は正月くらいから竜頭(リューズ)が引き出せなくなってしまっているので、修理に出すか買い替えるか迷っているところなのだ。

「赤」「腕時計」「メンズ」で検索すると出てくる時計は概してスポーティーであり、ゴテゴテとしてメカニカルである。クルマの計器をイメージしているのてだろう。
ところで車をカタカナで「クルマ」と書くとライトな感じになると同時に車を趣味にしてる小洒落たオトコ感がビンビン出てくる。女性のことを「オンナ」と言っていそうだ。鉄道ファンも「電車」のことを「デンシャ」と表記すれば少しはオシャレに見られるのではないだろうか。
これらのスポーティーかつメカニカルな赤い腕時計はフェラーリ略してフェラのシューマッハのファンが所有していそうだが、わてくそはフェラもクルマも別に好きではない。しかし深夜放送がまだ限定的だったころ深夜にやってたF1をぼーっと見ていたので「赤い皇帝」シューマッハくらいは知っているのだ。ちなみに「赤い宮様」は三笠宮様だ。

(思いがけず宮様が出てしまったのでここで中断したら6日経った)
高校の同級生に腕時計とりわけロレックス好きがいた。ある日彼は学校にロレックスのサブマリーナを付けて来たが、それはアメ横で買ったバッタもので、自動巻きどころかクオーツであり、よく見るとROLEXではなくROLIX(ロリックス)であった。余談であった。ウオッチ魚っち。

控えめで上品な赤い時計というのはなかなか見つからない。今流行りなのか青は数が多いのだが。バンドまで赤いものはわたくそには派手すぎる。文字盤だけが赤、しかも真っ赤ではなくて落ち着いたワインレッド、もしくは赤のグラデーションのものが欲しい。そういうものはなかなか無い。あっても大変な値段がする。そこで、オーダーメイドで手頃な値段の腕時計はないだろうかと調べた。いくつかの業者が出てくるが、バンドを選べるくらいでオーダーメイドと言ってほしくない。そんな中、赤い文字盤が選べる業者は「ルノータス」というところがヒットした。
ルノータスのページにはオーダーメイドシミュレーションがあり、これをいじくって何日か遊んでいた。以下にわたくそが作った腕時計を二三披露する。

 

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これ、エレガントでしょう。直径40㎜のクオーツである。赤い文字盤には細かいパターンが刻まれ陰影がある。ベゼルがやや華やかすぎるが、ちょうどいいベゼル(ロリックスデイトジャスト的なやつ)が欠品によって選択できなかったのだ。
ただ、私は自動巻き(機械式)を求めているのだ。40㎜自動巻きにはこの文字盤が選択できなかったので注文には至らなかった。

 

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次にごらんいただいているこちら、ダイバーズウォッチながら落ち着いているでしょう。
赤い文字盤は40㎜タイプと共通、回転ベゼルを暗いアルミシルバーにして引き締め効果を狙ってみました。ベゼルは真黒も考えたけど、武骨になりすぎる。
20気圧防水となっているけど、本格的なダイバース時計は200気圧~って感じらしい。ではこれはダイバーズタイプというべきか。洗顔や雨でも躊躇なく使えるくらいかね。まあ、わてくそは水に顔を漬けるだけでもひーひーなのでね、ダイビングなど一生しないでしょう。といってもダイバーズはいい。本来水中で酸素の残り時間を示すのに使う回転ベゼルが、劇場進行の予測をしたり、終電の時間を示しておいたり、都市生活に役に立つのだ。押しボタンを操作するタイプよりも、サッとさりげなくセットできるのもいい。
ただ、こちら直径が45㎜もある。これは相当デカい。デカ厚である。上着の脱ぎ着、リュックの背負い外しなどの際、引っかかるであろう。このデザインで42㎜程度(ロリ・サブ)ならベストだった。


ダラダラ書いていたら、赤いものを身につけたいという欲求が薄らいできた。

 

 

安倍首相の動画を見て思うこと

昨日(4月12日)、ツイッターに流れてきた動画を見て驚いた。安倍首相が優雅に犬を撫で、紅茶を飲み、読書をし、リモコンでテレビを操作している。星野源さんの歌とは何の関係もなく、初老のおじさんが無表情でくつろいでいるのである。一体何を見せたいのだろうか。「おじさんのくつろいでるとこ、見て。」なだろうか。
私は初め、何者か(安倍首相に批判的な者か、あるいはただの面白がりか)が作った動画を疑った。しかし首相のアカウントから投稿している、ということは、首相、アカウントを乗っ取られているぞ!と思った。

首相の動画を見る数日前に大泉洋さんと星野源さんのコラボ動画を見た。大泉洋さんは写った自分の寝癖を見てぶつぶつぼやいている。コラボになっていないが、「家でこれを歌ってるのを上げるの?どうやってみんな家で上げてんの?」とつぶやいている。その場で星野源さんの動画を流しながら撮っていることは想像できるし、本来コラボするものだということは分かっているはずだ。しかし安倍首相の動画は星野源さんの動画を見ているとは思えない。最後のテレビを見ているところで、星野源さんの動画を見ているのかと思いきや、チャンネルを切り替える素振りを(短時間に2度も)している。つまらないという感情しか伝わってこない。星野源さんの弾き語りに合わせてリズムをとるでもなく頭を動かすでもない。たぶん趣旨が分かっていない。(今ちょっと調べたら、岡崎体育さんと日村さんもコラボになっていない動画を上げているようだが、「あえて」であろう)

最初に首相動画を見た時に「これは怒らなきゃいけないやつだ」と理解しながらも、怒りよりもむしろおもしろくなってしまった。シュールなのだ。脈絡のないものを並べるという意味ではある種の現代美術のようでもあり、「舞台上のオーケストラとは無関係に」遠くで鳴らされる、マーラー交響曲第6番のカウベルのようでもある。

想像だが、これは昭恵婦人の発案だろう。「あなた、今こんなのが流行っているのよ。あなたのコラボなさいよ」と。そしてネットに詳しい広報担当を呼んで撮らせたのであろう。そして、誰も「今これを上げるのはやめましょう」と言う者がいなかった。もう周りにイエスマンしかいないのだろう。

おそろしいことにこの動画、中毒性が高い。決して「いいね!」は押さなかったが、「視聴回数」をやたらと増やしてしまった。そして繰り返し見ているうちに心境に変化が起きているのを感じた。いかんいかんと思いながら、写っている初老の男性にかすかではあるが親しみが湧いてきてしまったのだ。無表情だがその陰に孤独と苦悩が刻まれている。この男、みんなが言うほど悪い男ではないのではないか。そう思うと、星野源さんの奏でる素朴なメロディーと相まって、目頭が熱くなってしまった。
じつはそれが狙いで精巧に作られた動画なのかもしれない。

新型コロナ禍について思うこと、など

安倍首相がとりあえず1か月(5月6日まで)ということで緊急事態宣言を発令した。業種によって営業自粛を要請したが、あくまでも自粛を求めるにとどまっている。そもそも「自粛要請」という言葉はおかしいと思うが、いくらおかしいじゃないかと言っても、政権(官も含む)が白と言ったら黒いものでも白、命じずとも辞書の意味を書き換えるほどの力を持っているということは東日本大震災(のうちでも主に東電の原発事故)で嫌というほど思い知らされた。
自粛をしてはやっていけないなら店を開くというのも一つの選択で、これは非難すべきではない。だが市民による相互監視のような現象が生じている。すでに「この非常時に不平不満を言うな!」「戦っている兵隊さんに申し訳ないと思わないのか!」的なことを平気で言ってしまう人もいて。(開いていても行くことを客に躊躇わせている、これはより卑劣な方法だ)。強制ではないと言いながら、警官が警棒の長いもので威嚇して客を追い返す歌舞伎町の様子がテレビに流れた。悪夢のようだ。

借りる側にも貸す側も経験しているので、どちらの立場もわかる(といってもケースはそれぞれ、簡単にわかったなんて口にするなという思いもあるのだが)。
新型コロナはいつまで続くのかわからないところが恐ろしい。「1ヶ月休業します。一月後には必ずお店を開きます」ということならば、大家は家賃を待ちやすいし、各種支払いも待ってくれるかもしれない。優しい(優しくみられたい)人なら一月分くらい免除してくれるかもしれない。銀行も融資してくれるかもしれない。だが、再開いつになるかわからないと貸している方は早く返せと考えてしまう。これが恐ろしい。
長引けば長引くほど体力勝負だ。このままでは個人事業主は貯金の尽きた者から順につぶれていく。営業を自粛させるなら家賃くらいは出してやれないのか。
東京や大阪の繁華街など、コロナ禍が終息したら、個人商店は軒並み潰れていて大手資本のチェーン店ばかりという光景になるかもしれず、ひょっとして政権はそれを狙っているのではないかと思ってしまうこともあり。

PCR検査の数が諸外国に比べて圧倒的に少ない、患者が望んでもなかなか受けさせてもらえない、ということについて、検査をするかどうかは当局か決めるものでそもそも患者のためにするものではないではないかという疑念がある。(警察に被害をうったうえても捜査するかどうかは警察の判断という構図を思い出す)、窓口が「帰国者接触者相談センター」という名称であることからして(この名称を付けた人が誰だか知らないが悪い意味で天才的だ)、当初からPCR検査に消極的であろうという強い意志が感じられる。
検査数が少ないことを擁護する意見として多いのは「医療崩壊を防ぐため」「検査の結果には精度に問題があり偽陰性もありうる」というものが多く、わたくしなど一聴したところそれも一理あるかなぁと思ってしまうのだが、それならば安倍首相がはっきりとそれが“日本の方針である”と明言、説明するべきだ。首相はむしろ、PCR検査が少なすぎるのではないかという質問には「増やします」と言っている。ここに、誤魔化しを感じ、何か嘘をつかれているのではないだろうかという不安がある。

ロックダウンについて。どの程度の制限を課すかはともかく現状よりも強い制限をという意味で。自粛という名で判断を個人に迫り分断を煽るよりはまともだ。素人考えだが、外出を禁じることは、現行憲法下でもより徹底した対策をとれるのではないかと思う。日本は災害の多い国だ。毎年、台風では避難勧告、指示を出している。お手の物ではないか。原発事故のときには強制的に移住させたではないか。新型コロナ禍だって災害だ。

感染症についても医療についてもど素人のわてくその思う所を殴り書きで羅列してみて、わたくそレベルが言うてもしょうがないことだなぁと思いつつ、2日後に予約投稿した。2日の猶予の間に消すかもしれない。残すかもしれない。

オレはここで食う!(バンバン)

松屋は昔から券売機で食券を買う方式だ。
そして吉野家に対抗してか決して「牛丼」とは言わない。「牛めし」である。どんぶりに盛ってあるので牛丼でいいじゃないかと思うのだが「牛めし」である。吉野家は味噌汁は別料金、松屋は味噌汁が付いてくるのが大きな違いだ。味噌汁が付いてくるのは嬉しいが、夏の暑い時期などは味噌汁いらねぇと思うこともあり、でもせっかくついてきたんだからと飲んで汗だくになってしまうのだ。
東京の松屋では「プレミアム牛めし」と称し、やたらと黒っぽい七味のようなふりかけるものが付くかわりに少しお高くなっている。「俺はふつうの牛めしでいい」と言っても、「プレミアム牛めし」の店では「プレミアム牛めし」しか置いていない。東京ではあるが北千住あたりでは普通の「牛めし」でいいと思うのだが、北千住でもプレミアムなのだ。私の知る範囲では普通の牛めしの方がレア、いや絶滅したかに思われた。
ところが最近、プレミアムではない普通の「牛めし」を久しぶりに食した。東大阪市は布施の商店街においてであった。さすがは布施だ。50円ほど安くて、黒っぽい七味のようなふりかけるものが付いていなくて、あとなぜかお盆がなくてカウンターがビショビショだったが、味に大した違いは感じなかった。最近、と書いてしまったが、前回布施に行ったのは2018年11結のことである。わたくそが布施に行くのはストリップ劇場「晃生ショー」に行くためであり、それ以外の用事はないのだ。だから前回布施に行った日にちを覚えているのだ。
もう1年3か月前の事なので、今でも布施の松屋がただの「牛めし」をやっているのかどうかはわからない。


先日(まだ新型コロナウィルスの脅威が差し迫っている実感がなかったころ)、仕事関係の人とまずい酒を飲んだ後一人になって、終電間際の松屋に入った。券売機の前に女性がいて、わたくそは後ろで待っていた。(突然ですが、わたくそというのは私の謙遜です。)女性はスマホを券売機にかざしている。クーポンか何かを使おうとしているのだろうが、なかなか読み取られない様子だ。わたくそ、圧をかけることなく静かに待っていたのだが、女性は振り返り「すみませんお先にどうぞ」と言うと店を出て行った。わたくそは券売機で「プレミアム牛めし並」を買った。
終電間際だからか店内はガラガラである。カウンターに食券を置き、腰を下ろし上着を脱いだ。東南アジア系と思しき若い店員が「いらさいませー」と言いながらお茶を持ってきた。店員は食券を見ると「あちらへどうぞ」と言って奥の席を指さした。指差した一角にはガラの悪い兄ちゃん(このばあいはあんちゃんと読む)が二人いて大声で喋っていて、近寄りたくない雰囲気を醸している。おかしい。松屋は基本的にお好きな席にどうぞなのである。「え?ここじゃダメなの?」と聞き返した。すると店員は「あちら」とまた指差した。「もう座っちゃったし、ここで食わせてよ」と言うとキョトンとしているので、手のひらでカウンターを叩いて「オレはここで食う!」と言ってしまった。強く言うつもりはなかったが、自分でも驚ろくほど大きな声が出てしまったし、バンバンと2回カウンターを叩く音も予想外に響いてしまった。店内が静まりかえった。店員は数秒固まったあと黙ってキッチンへ行ってしまい、店長だか何だかわからないが上司らしき眼鏡の中年店員とひそひそ話をしている。ちらちらとこちらを見ながらだ。わたくそは人に威圧感を与えるような外見ではないはずだが、それでも体が大きいということは場合によって怖がられてしまう可能性があることも自覚している。なによりむやみに人を威圧したり怖がらせることは恥だと思っている。それなのに、期せずしてこんなことになってしまった。
やがて牛めし、みそ汁、黒いふりかけをお盆に載せて「おまたせしましたー」と言いながら持ってきた。その目はこころなしか怯えている。そもそもなぜ席を移れと言ったのだろう、いったい何だったんだろうと思いながら牛めしをかき込む。ふと残された半券に目をやると、「弁当」の文字が目に入った。「持ち帰り」という意味だろう。わたくそはすべてを察した。昨年10月から消費税増税に伴って持ち帰りは軽減税率になっている。女性は持ち帰りで買おうとしていたのだろう。「お先にどうぞ」されたあと、自販機をリセットし、トップ画面で「店内」か「お持ち帰り」かを選択する必要があったのだ。そして店員氏の指差した「あちら」というのは、お持ち帰り用カウンターだったのだ。わたくそはささやかな脱税をしてしまったのである。しかも松屋はお持ち帰りには味噌汁は付かないのに、お味噌汁を付けてくれて。
さぞ面倒な客が来たと思われたに違いない。急いで食べ終え、小さい声で「ごちそうさまでした……」と言って飛び出した。いまごろあの店には、防犯カメラの画像をプリントアウトして要注意人物としてわたくその顔が張り出されているかもしれない。