がけぷっち世界

ここはくまのおかしな世界です。

お正月のある日

あけましておめでとうございます。

といっても、もう1月13日だ。
コロナ禍(と、それによって明るみになる、人の、組織の、狂っているとしか言いようのない態様に、僅かながらにでも持っていたからこその怒りを抱き、しかし自分もまたその中の一人であり、自分が狂っていないとは確証は持てない)のさ中、「何がおめでとうだ!めでたくなんかないよ!」と叫びたい気持ちもチラリと脳裡をよぎる。

それでも、劇場で、あるいはSNSで、踊り子さんに「あけましておめでとう」と言い合える日々は、きっと幸せなのだろう。
幸せとは。
私は軽い依頼をするときの文章には「~していただけたら幸いです」と書くことが多いのだが、くまさんが「幸いです」とよく書くのは、教会に通っていたからでは?と言われたことがあった。確かに、説教ではよく「幸いである」と言うが、教会に行っていたから使うようになったのかどうかはわからない。私は親の影響でカトリック教会に行っていた。聖書は今でも繰り返し読んで何冊かボロボロにしたが、読み過ぎたせいか「作品」として興味が湧いてしまい、洗礼は受けていない。だが、信者よりも信者に見えるらしく、「えっ、ノンクリだったの?」と驚かれることがある。ノンクリとは、クリ(スチャン)ではないということだ。
「幸いです」は宗教とは無関係に、柔らかく聞こえるだろうと思ってよく使っているのだが、ビジネスでは「お前の気持ちなんか関係ない」と思われる方もいるので、最近は気心が知れないうちは使わないようにした。
どういうわけか話がかみ合わないな、と思っていた相手に、「どうしてくまさんはいつもつらいと言うの?」と言われて、どうやら「さいわいです」を「つらいです」と読んでいたらしい。「辛い」と「幸い」は似ている。ついでに、「つらい」と「からい」は漢字にすると同じだ。
ところで、私にはヒョウとジャガーの違いがわからない。

去年4月にブログに政府のコロナ対策について書いた。筆が滑って極端な言い方になってしまったところもあるが、今読み返しても消去や訂正するほどの間違いは無いし、今でも考えに変わりはない。
昨日と今日は家にいた。二度目の緊急事態宣言のもと、週に5日出勤するところを2、3回に減らしている。リモートワークと言えばリモート会議みたいな風潮である。私には、生で動画を配信するような機材もネット環境も、また知識もなく、実際は一番ないのは生で顔を配信する気なのだ。またそんなことをやろうというような洒落た職場でもなく、電話、FAX、eメール、郵送といった古い文明でなんとかなっている。約一年のコロナ生活のうちに身に付いたウラ技もある。書類を郵送する際に三文判のようなものを入れておいて、「ご確認の上、同封の印を押してください」という、厳密に考えたらいけないことをしているが、コロナだから仕方ないよね…と思いつつ。

寒い日が続いているが、少しは暖かい昼下がり、歩きで買い物に出た。コンビニのコピー機で、ある踊り子さんのZineを受け取った。劇場ではなくて、こうして家の近くで受け取るというのも不思議な気分だ。コピー機を操作して、僅かなお金を入れると、踊り子さんの書いた文章が印刷されたA4用紙一枚が出てくる。ほんの少し、手間と時間とお金がかかるが、それがいい。スマホの画面で見るテキストじゃなくて、紙。ほんの少しの物質感。これもいい。
Zine、最近よく見る言葉だが、馴染みが薄い。マガジン、同人、のジン、らしい。私世代はジンと言えば「ジンジンジン コーラとジンでアメリカ人、ジュースとジンでフランス人…」という森高千里の歌声が甦る。
速達を出し、スーパーでミカンと弁当を買い、家に帰るともう部屋がとっぷりと暗くなっている。
お茶を沸かし、ミカンを食べ食べ、Zineを読む。年末の日常が綴られていて、所々ふふっ…となる。知らなければこれを書いたのが踊り子さんだとはわからないな。ふと、自分がブログをひと月以上更新していなかったことに気付いた。テレビでは、虚ろな顔をした老人がボソボソと他人事のように、非常事態宣言の地域拡大について会見をしている。